それまでの常識を覆した土釜の駅弁「峠の釜めし」


今日は、前回の高崎「だるま弁当」同様、器系駅弁(そんなジャンルあるのか)の代表格「峠の釜めし」です。

「峠の釜めし」を販売する荻野屋は、栃木県・宇都宮駅で日本初の駅弁が売られたとされる1885(明治18)年に、信越本線横川駅で駅弁の販売を始めたそうで、現存する最古の駅弁屋とされています。同社の公式サイトよると、荻野屋は、江戸時代から碓氷峠(霧積温泉)で、江戸へ向かう旅人を相手に温泉旅館を営んでいたといいます。

碓氷峠は中山道最大の難所で、十七番目の坂本宿と十八番目の軽井沢宿の間にありました。荻野屋が旅館を営んでいたのは上野国の坂本宿側で、その少し手前には碓氷関所が置かれていました。そのため往来には厳しい制約があり、1654(承応3)年の霧積温泉入湯手形によると、湯治に来たのはほとんどが近隣の村人だったということで、1831(天保2)年の文書には、坂本村の湯小屋1軒と土塩村小屋と称する2軒があったことが記録されているそうです。


一方、坂本宿は1843(天保14)年の『中山道宿村大概帳』によれば、人口は732人、本陣2軒、脇本陣2軒に旅籠が40軒あり、比較的大きな宿場だったようです。そう考えると、荻野屋は坂本宿で旅籠を営んでいて、宿場町からは3里ほど離れてはいますが、霧積温泉という湯治湯を抱えていたということなのではと思ったりもします。

そんな中、1885年(明治18)に信越本線の高崎駅 - 横川駅間が開通したことによって人の流れが一変、街道を行く旅人はいなくなってしまいます。が、いち早く鉄道開通の情報を得た荻野屋では、兄の高見澤政吉氏から屋号を受け継いだ仙吉氏が、鉄道の駅が出来る横川へ移住。信越本線の開業と同日の10月15日に、料理旅館として再スタートすると共に、横川駅で弁当の販売も始めました。


とはいえ、山間の横川駅は乗降客が少なく、苦しい経営が続いたようです。それを打破したのが、1957(昭和32)年に誕生した「峠の釜めし」でした。これは4代目社長の高見澤みねじ氏が、「お客に喜ばれる特色ある駅弁」の開発を目指し、旅客にどんな弁当を望んでいるか聞いて回った結果から生まれました。

客が望んでいたのは、「温かくて、見た目も楽しい弁当」で、その実現に向け試行錯誤をしていた荻野屋に、益子焼の窯元つかもとが営業に来ました。つかもとでは、4代目社長夫人の塚本シゲ氏が主導し、土釜の弁当容器を考案。関東近辺の弁当屋へ土釜の営業をかけていたのです。そして、保温性があり、益子焼の土釜という当時の駅弁の常識を覆した器が、荻野屋の構想とぴったりはまり、その日のうちに納品が決まりました。

当初は思ったように売れなかったようですが、クチコミやメディアでの紹介もあって徐々に人気が高まり、ついには全国区の知名度を獲得するまでになりました。そのため1日数十個から始まった土釜づくりも、つかもとだけでは製造が追いつかず、益子の他の窯元20軒余りに釜づくりを発注。結果、益子焼全体が活況を呈するほどになったと言います。


その後も1993年の上信越自動車道の開通や、1997年の長野新幹線(現・北陸新幹線)の開業に伴う横川駅 - 軽井沢駅間の廃止など、幾度となく荻野屋にとっての逆風が吹きました。が、その都度、サービスエリアに出店したり、新幹線の車内販売を開始したりして、苦境を乗り越えてきました。

私も軽井沢取材の帰りに益子焼の釜めしを買ったことがありますが、2年ほど前に近くのスーパーの駅弁フェアで買った峠の釜めしは、益子焼の器ではなく、よくテイクアウトなどに使われているパルプモールドの紙容器でした。 コロナ禍の試みなのかなとも思いましたが、元が駅弁だったのですから、今更テイクアウト用にってのもおかしな話。で、包装を確認してみたら、益子焼の器が重いという客の声を受け、環境にも配慮した容器として誕生したとのこと。ただサイトには「峠の釜めし」と「峠の釜めし(パルプモールド容器)」とあるので、昔からの器も健在なようです。

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