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えびえび丼にずわいがに寿司・ますの寿司

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富山に日帰り出張した時のこと。富山駅には昼前に着いたので、シロエビ天丼を食べるべく、富山駅ビル3階の白えび亭へ。先に食券を求めるシステムで、ショーケースにある番号と機械の番号を照合し、お金を投入して食券購入。この時、本人はシロエビの天丼 with 刺身を注文したつもりでした。 が、出てきたものは、白えび亭曰く「えびえび丼」。シロエビに普通のエビ天が載ってる丼でした。え~っ! うそ~! と内心思ったものの、大人になれ、と自分に言い聞かせ、冷静を装い完食しました。でも、食べたかったものを食べ損ねた悔しさと共に、なんで間違えたんだろう、との後悔が・・・。 が、その後取材した、教育関係のフォーラムで、基調講演をされた方が、こんなことを言っていました。 ・出来ないのは当たり前、よくあること ・落ち込むのは当たり前、よくあること ・予定通りいかないのは当たり前、よくあること そ、よくあること、と思えたのでございます(ホントは、この話を聞くまで、食べ損ね&間違いのことは、既に忘却しておりましたが・・・)。 で、気を取り直して、帰りに富山駅のホームで見つけた「ずわいがに寿司」を購入。実は「冬季限定」の文字に惹かれたのですけどね。私、どうもミーハーな性格なもので「限定」とかいう文字に弱いのです・・・。もし、これが「冬季限定」じゃなければ、買ってなかったかもしれません。 そして、シロエビ天丼講師のお話と、「冬季限定」をゲットしたことで、気持ちを盛り返した私が列車を待っていると、フォーラムでパネリストを務めていた知人から電話が入り、「どこですか?」と。知人は壇上にいたので、あいさつをせず先に失礼したのですが、ご丁寧にお見送りをしてくれると、私がいるホームまで来てくださったのです。しかも、ますの寿司持参で。 アイヤ~! 列車に乗り込んだ後、そのご親切に落涙した私でありました。 農林水産省の「うちの郷土料理〜次世代に伝えたい大切な味」によると、ます寿司は江戸時代半ばの享保年間、料理に長けていた富山藩士・吉村新八が三代目藩主・前田利興のためにアユの寿司を作り、これを気に入った利興が将軍吉宗へ献上。吉宗が味の良さを賞賛したことで富山名物と謳われるように。その後、アユの代わりに春になると神通川へやってくるサクラマスを使うこととなり、これが現在の「ます寿司」の原型と考えられている。全国的に知れ渡るき...

有田焼と焼きカレーをかけたコラボ・カレー

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高崎の「だるま弁当」、横川の「峠の釜めし」に続き、器系駅弁のニューカマー「有田焼カレー」の話です。 2010年にカメラマンの田中勝明さんと有田を取材した際、JR佐世保線有田駅のキオスクで、有田焼の陶器に入った焼きカレーを発見しました。それが、有田焼と焼きカレーをかけた「有田焼カレー」です。 仕掛け人は、当時の西田辰実駅長。この方、佐世保駅長時代に「佐世保バーガー」をヒットさせた名物駅長らしいです。有田に赴任後も、集客アップを狙っていろいろと企画。その一つが、地元のカフェ「創ギャラリーおおた」の名物・焼きカレーとコラボしたこの駅弁でした。私たちが行った頃は、1日限定30個の販売(1個1500円)で、キオスクに頼めば電子レンジで加熱してくれていました。 もちろん、「創ギャラリーおおた」でもオリジナルの焼きカレーが食べられました。28種類のスパイスと佐賀牛を、1週間かけてじっくり煮込んだルーは、コクのある芳醇な味に仕上がり、これを地元産棚田米のご飯にかけ、厳選したチーズをトッピングして石窯オーブンで焼いていました。ただし、こちらは器のお持ち帰りはありませんでした。 ただ、「創ギャラリーおおた」は専門の駅弁屋ではないので、いまどうなっているか検索したところ、2019年5月に「有田テラス」と屋号を改め、今も「有田焼カレー」を販売していました。新しい屋号は、「いろいろな人に集まってもらいたい」との願いを込めて変更したそうです。 で、西田駅長とのコラボを機に、有田町長を始め、役場の観光課や商工会の協力も得て、町おこしの一環として百貨店等のイベントにも積極的に参加。それにより、伝統産業の有田焼と、有田の食のジョイント企画が生まれ、有田に明るい話題を提供しました。 その一つが、2011年にデビューした「有田焼五膳」です。有田の新ご当地グルメとして、地場産の鶏肉が、焼きもの・酢のもの・煮もの・蒸しもの・揚げものの五つの料理に仕上げられ、この料理のために特別に開発された有田焼のオリジナル器に盛り付けられます。有田焼の器を楽しみながら味わうプレミアムな料理として、現在3店舗で提供されています。 一方、「有田焼カレー」の評価もうなぎのぼり。2010年度第7回「九州の駅弁ランキング」グランプリ、 お取り寄せ企画では日本一といわれる、雑誌『BRUTUS』による「日本一お取り寄せグランプリ2014...

それまでの常識を覆した土釜の駅弁「峠の釜めし」

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今日は、前回の高崎「だるま弁当」同様、器系駅弁(そんなジャンルあるのか)の代表格「峠の釜めし」です。 「峠の釜めし」を販売する荻野屋は、栃木県・宇都宮駅で日本初の駅弁が売られたとされる1885(明治18)年に、信越本線横川駅で駅弁の販売を始めたそうで、現存する最古の駅弁屋とされています。同社の公式サイトよると、荻野屋は、江戸時代から碓氷峠(霧積温泉)で、江戸へ向かう旅人を相手に温泉旅館を営んでいたといいます。 碓氷峠は中山道最大の難所で、十七番目の坂本宿と十八番目の軽井沢宿の間にありました。荻野屋が旅館を営んでいたのは上野国の坂本宿側で、その少し手前には碓氷関所が置かれていました。そのため往来には厳しい制約があり、1654(承応3)年の霧積温泉入湯手形によると、湯治に来たのはほとんどが近隣の村人だったということで、1831(天保2)年の文書には、坂本村の湯小屋1軒と土塩村小屋と称する2軒があったことが記録されているそうです。 一方、坂本宿は1843(天保14)年の『中山道宿村大概帳』によれば、人口は732人、本陣2軒、脇本陣2軒に旅籠が40軒あり、比較的大きな宿場だったようです。そう考えると、荻野屋は坂本宿で旅籠を営んでいて、宿場町からは3里ほど離れてはいますが、霧積温泉という湯治湯を抱えていたということなのではと思ったりもします。 そんな中、1885年(明治18)に信越本線の高崎駅 - 横川駅間が開通したことによって人の流れが一変、街道を行く旅人はいなくなってしまいます。が、いち早く鉄道開通の情報を得た荻野屋では、兄の高見澤政吉氏から屋号を受け継いだ仙吉氏が、鉄道の駅が出来る横川へ移住。信越本線の開業と同日の10月15日に、料理旅館として再スタートすると共に、横川駅で弁当の販売も始めました。 とはいえ、山間の横川駅は乗降客が少なく、苦しい経営が続いたようです。それを打破したのが、1957(昭和32)年に誕生した「峠の釜めし」でした。これは4代目社長の高見澤みねじ氏が、「お客に喜ばれる特色ある駅弁」の開発を目指し、旅客にどんな弁当を望んでいるか聞いて回った結果から生まれました。 客が望んでいたのは、「温かくて、見た目も楽しい弁当」で、その実現に向け試行錯誤をしていた荻野屋に、益子焼の窯元つかもとが営業に来ました。つかもとでは、4代目社長夫人の塚本シゲ氏が主導し、土釜...

高崎駅の鶏めし弁当とだるま弁当

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昨日は4月10日の「駅弁の日」にからめ、諸説ある日本初の駅弁について書きましたが、今日はその一つ群馬県・高崎駅説の根拠となっている「たかべん」こと高崎弁当の話です。 「たかべん」の公式サイトによると、同社は1884(明治17)年の創業で、この年5月の高崎線開通に伴いおにぎりの販売を開始したとしています。これは、日本最初の駅弁の定説となっている栃木県・宇都宮駅の駅弁より1年以上早いことになります。が、同社の主張以外にそれを裏付ける資料がなく、それを証明する術はないようです。 高崎弁当は1958(昭和33)年、当時、高崎駅で営業していた3軒の弁当屋が、国鉄の指導の下、合併して誕生しました。3社とは、松本商店、天来庵矢島、末村商店で、松本は1886(明治19)年、矢島は翌87(明治20)年、末村は1906(明治39)年にそれぞれ構内営業者になっています。となると、最も古い松本商店でも駅での営業は公式サイトの創業年より2年後のことなので、はて?となってしまいます。 とりあえず公式サイトの話に寄せてみると、松本商店なり天来庵矢島の創業が1884年であったのではないしょうか。合併前にそれぞれが販売していた駅弁の掛紙を見ると、松本商店も天来庵矢島も高崎駅前にあったようなので、構内営業者となる前に、駅前で何らかの店を出しており、高崎線開通と共に高崎駅を利用する旅客相手におにぎりの販売を始めたというところかもしれません。 古くから高崎市に住んでいる方の話だと、合併後の高崎弁当は、最もやり手だった末村商店が主導権を握るようになったとのことで、公式サイトを見ると現在の社長も末村さんになっていますね。末村商店の創業がいつで、どのような業態だったのかは不明ですが、松本商店、天来庵矢島と合併して高崎弁当になって以降、中心となって活躍した末村商店は現社長の父である末村重雄氏の力が大きかったようです。 末村重雄氏は福岡県の出身で、大牟田市にある県立三池工業高校を卒業。この頃、第二次世界大戦の戦況悪化により徴兵年齢が19歳に引き下げられ、末村氏も終戦間際に中国へ出征し、敗戦により復員した後、1948(昭和23)年に親族が経営していた末村商店に入社しました。そして高崎弁当となって2年後の1960(昭和35)年には社長に就任し、その直後に同社の代名詞とも言える「だるま弁当」を販売、全国屈指の人気駅弁に育...

駅弁の日と駅弁記念日

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4月10日は「駅弁の日」だそうです。と言っても、1993(平成5)年から始まったもので、まだ30年ほどの歴史しかないんですな。しかも、「弁当」の「当(とう)」から10日、「4」と「十」を合成すると「弁」に見えるから、ってんですが、だいぶ苦しい気がします。 で、実はこれとは別に「駅弁記念日(7月16日)」というのもあるんですね。こちらは、日本初の私鉄である日本鉄道が建設を進めていた東北本線第二区線の大宮駅 - 宇都宮駅間の営業が開始された1885(明治18)年7月16日に、栃木県の宇都宮駅で売られた弁当を日本初の駅弁だとしているためです。 ただ、日本初の駅弁に関しては、宇都宮駅説の他に大阪府・梅田駅説、兵庫県・神戸駅説、群馬県・高崎駅説、東京都・上野駅説など諸説があります。そのため、ホントに1885年7月16日が最初なのか、ホントに宇都宮駅が発祥なのか、その確証はないようです。 駅弁記念日になっている宇都宮駅説ですが、これは宇都宮の旅館「白木屋」の主人・斉藤嘉平氏が、日本鉄道の重役の薦めで弁当の販売を始めたというものです。この話は国鉄構内営業中央会が1958(昭和33)年に発行した『会員の家業とその沿革』に載っているらしいのですが、白木屋への聞き取りを元に書かれたもので、それを裏付ける資料は空襲で焼失して残っていないそうです。 また梅田駅説と神戸駅説は、1877(明治10)年の西南戦争が関係しています。当時、官軍は兵隊を神戸港から船で九州へ輸送しており、神戸港へ向かうために兵隊たちが降り立った梅田駅や神戸駅で弁当が売られたのではとする説です。が、仮にそれが本当だったとしても、戦争中の8カ月だけ、しかも兵士限定なので、それを駅弁と呼んでいいのかは疑問です。 高崎駅説の根拠は、だるま弁当で知られる「たかべん」の公式サイトにあります。それによると、たかべんは「1884(明治17)年、創業、上越線の開通に伴いおにぎりの販売を開始」とあり、であれば宇都宮駅説よりも1年ほど早いことになります。ただ、同社の主張以外にそれを裏付ける資料がないのと、なぜ新参者がいきなり駅での弁当販売を任されたのか、不思議ではありますな。※(誤)上越線開通/(正)高崎線開通 一方、上野駅説については、何人かの人がこちらが有力と唱えています。それは、1883(明治16)年12月に日本鉄道から発行された『改...